Why I Am not a Market Radical
Vitalikが仲介してAudreyと連携し始めてから考え方が変わったのだろう
解説(要約)
E. Glen Weyl は自著『Radical Markets』のアイデアや「マーケットによる制度改革」の限界を自己批判的に整理している。大きな問題は、(1) 個人と国家(トップダウンの統治)しか想定しない「経済学的=原子論的」思考に陥っていたこと、(2) 社会的なつながりやコミュニティが生み出す“共同価値”(公共財・規模の経済など)をほぼ無視していたことである。
具体的には以下のように論じている。
1. 経済学に根差す原子的思考 (ALONE) の限界
個人をバラバラの“原子”として捉え、問題解決の主体を「国家(仕組み設計者)」だけに置く発想は現実とかけ離れている。
実際には人々は多様なコミュニティに属し、公共財や社会的価値はそうした共同体から生まれる。
2. 共同価値を重視しながらも、設計は“個人主義×国家”に寄りすぎ
『Radical Markets』では公共財の重要性(“Increasing Returns”)を強調するが、提案メカニズムは「個人の利益と国への課税」しか基本枠組みに入れない。
結果的に、コミュニティ同士の共同所有・公共財の分配・コラボレーションといった面を軽視してしまう。
3. 提案してきた制度案への個別の批判
Quadratic Voting(QV): 個人を一律に扱う仕組みでは、恋人や友人、同僚など関係性の濃淡が反映されず、「共通の利益」が歪む恐れ。コラボや集団的投票行動のほうが本質的。 Data as Labor: データを「個人」の切り売りではなく、コミュニティが共有する価値(データは多数の人々が絡む)として捉えないと、本来の集団的交渉力を得られない。 4. 今後に向けて
ただし、その実現には「個人 vs. 国家」の二極モデルを捨て、コミュニティや社会的連帯を正面から扱う仕組み設計が不可欠。
『Radical Markets』の提示したアイデアを、コミュニティを中心に再構成し、トップダウン的・テクノクラート的な導入にならないよう注意すべきと強調している。
以上のように Weyl は、「共同体や公共財の視点をきちんと取り込まないと、マーケット・メカニズムの設計は机上の空論になりかねない」という問題意識を示し、今後はより社会的文脈を取り入れた制度実験・設計を追究すべきだ、と結論づけている。